フェルディナント・フォン・シーラッハの新刊、『禁忌』 ~"TABU"
問答無用ですぐに手にとり、購入するのがフェルディナント・フォン・シーラッハ。
そしてこの『禁忌』は、「法廷劇」や「謎解き」だけではなく完全に"文学"な作品です。
静かに語られていく主人公のゼバスティアン・フォン・エッシュブルクの半生が物語の半分を占め、後半にガラリと雰囲気を変えエッシュブルクが殺人罪で起訴され、裁判へと持ち込まれていく過程が描かれています。
エッシュブルクは落ちぶれた旧家の出身であり、プロの芸術的な写真家として活躍するかなり風変りな男性。
万物に人が知覚する以上の色彩を認識し、全てを人と違った目線でとらえています。
子供のころ父親が猟銃で自殺し、住んでいた古い屋敷を母親は売り払ってしまいます。エッシュブルク自身は寄宿学校で暮らしてきたので、完全に確立された自分自身の世界を持ち、再婚して別に暮らしている母親とは疎遠な生活をおくっています。
ある時、若い女性の声で助けを求める緊急電話が入り、捜査の結果、彼女は車のトランクに閉じ込められて殺害されたのだと断定され、エッシュブルクが状況証拠により逮捕されます。
ここで問題なのが「被害者の不在」。
被害者の死体が見つかっていないのに、殺人が起こったと断定できるのか?
です。
事件の弁護は有名弁護士のビーグラーに任されますが、ビーグラーが謎解きをするわけではありません。どちらかというと、本人のビーグラーも認めているように"使い走り"をさせられています。
エッシュブルクは「有罪」か「無罪」かが争点なのですが、このお話は有罪や無罪という観点からは全く離れ、『芸術』を語っていると言えるのではないでしょうか?
そしてエッシュブルクの作品が"インスタレーション ~Installation art" (展示空間全体を使った3次元的表現。空間全体が作品) という言葉で表現されていますが、一言でいうと、この事件全体が世間全体を使ったインスタレーション。
ミステリーではなく、芸術表現なのです。
シーラッハの描く人物は、誰も彼も際立っていて、風変りな一面を持っていたり、規則正しくて忍耐強かったり、何かにのめり込んでいたりと様々です。
人間はそのままの、有りのままの自分でいい。そんな気がします。
Bokeh in Red Photo by Stanly Zimney https://www.flickr.com/photos/stanzim/ |
"うらを見せおもてを見せて散るもみぢ"
という日本の僧侶、良寛(1758-1831) が死の床で遺した句を「わたしにとって、とても重要な句です」とシーラッハは"日本の読者のみなさんへ"という挨拶のなかで紹介しています。
ひらひらと表も裏も見せて散っていく"もみじ"は死にゆく良寛自身。
自分の裏も表も何もかも隠さずに見せた相手は、介抱してくれていた貞心尼(40才年下です)だそうです。(何もかも見せられてしまうと、疲れてしまう気もしますが。)
こうして、もしかして日本人以上に日本の文化を理解し、取り入れてくれているシーラッハですが、今回の『禁忌』のなかでも、日本のサムライがかつて「自分はもう死んでいる」という言葉とともに起床するのが日課だったという引用があります。
今よりももっと『死』が日常であった時の覚悟です。